ぼらんたーるな人 vol.11 柴田智子さん(ソプラノオペラ歌手)

私の9・11
柴田智子のNYボランティア事情。

9・11アメリカ同時多発テロ事件。ニューヨークダウンタウンの市民もあれから、新しい生活を始めた人が大半です。この事件を自分の過去のものとして新しい人生を始めた人が半分、保険が切れながらこの街に残されて、食べることもままならない生活をしている人びとも多くいます。事件当時、歌手のスティングがイタリアの公演で一時は自粛でコンサートをやめようと思ったそうですが「今だからこそ歌うのだ」と言って長い黙とうをささげ歌い、そこにいたイタリアの聴衆も痛みを分かち合えたと聞きました。音楽の力で、私はそういう人たちのために何かできることを探しています。


©原田京子
 
©辻井彰子

◆柴田智子(しばたともこ)
東京生まれ。ソプラノボーカリスト。NYと東京を拠点に音楽家としての活動を続ける中、2001年9・11に遭遇。現地でボランティア活動を経験。NY・トリニティチャーチで行われる9・11のチャリティーイベントに毎年参加する。国内では、「サラダ記念日」など、人のココロを豊かにする数々のコンサートを企画している。

自由が丘オペラ座内 TS PROJECT : http://www.tomokoshibata.com/

■NYアップタウン地域からダウンタウンに移り住んだばかりの私が、
なぜ9・11に遭遇したのか。

私はウエストブロ−ドウェイ、チャンバーズST近くをオーディションに行くために駅に向かっていました。すぐ目の前にそびえ立つビルの上から煙がもくもくと出ていたのですが、それでも構わず地下鉄に乗りました。が、電車は、なぜかワールド・トレード・センターに向かって動き出したのです。

全く事情が分かりませんが、途中で止まり、今度は駅に着いたら電車で「アップタウンに全員逃げるように」とアナウンスがありました。そして、地上に出るとすごい音がしました。

まず何が起きたか分からなかった。怖かった。震えた。
現場付近にいる自分が被害者なのか迷い、自分は何ができるのか迷った。

駅では人が大声を上げて出口へと押し寄せて行きました。一人の老女が倒れ、みんな逃げました。後ろを振り返ると彼女はまだ倒れたまま。私の中の小さな良心が彼女の体に触れたときはもう遅かったのです。地上に彼女を他の人と引っ張りあげて、初めて地上のカオスを見ました。

■ボランティアを生活の中に取り入れているアメリカ人の行動は早く、
呆然としている私の前を走っていました。


©原田京子

彼らは自分のTシャツを脱ぎ“自分はボラインティアをしたい!何かできることはないか”と叫ぶ代わりに旗を掲げていた。彼らが冷静に自分ができることを理解している事が分かったので、私は、自分ができる事を探し始めました。

事故に居合わせ、離れ離れになったという観光客を待ち合わせの42丁目ターミナルのバスの乗り場まで案内をしたり、歩けなくなった人を背負いまたダウンタウンのST・ビーセント病院まで歩きました。そして、外に置かれたベッドに横たわる方々に何とか耐え忍べる言葉を掛ける代わりに手を握り締めていました。

アパートに戻ると……。

また爆発が起きるのではないかと思っていたので、タイヤが割れてパーンと音がしただけでも、すべての音が恐怖になりました。
灰をかぶり、何だか分からない状態の私に、警察の人は「落ち着いて、なるべくアップタウンに逃げるように、そして親戚がいればそこへ行くように」と言いました。
アパートの部屋は粉塵だらけ、息をすることもままならない、電話は通じない。
エレベーターや廊下には、行方不明者の写真が張り出されていました。
そして、この地区のスーパーからは、食料品がすべて消えていました。

■夢中でおにぎりを握っていた私の両手。

42丁目から危険地域で誰一人入って来られないのです。食料品を求めるためには、この地域の住民を証明するリースやパスポートを持ち歩きながら1時間半以上歩かなくてはなりませんでした。
私は、日本から持ってきたお米と梅干で、おむすびを握り、ファイアーファイターのいるセント・ポールチャーチやトリニティチャーチに差し入れをしていました。


©原田京子
 
©原田京子

NY私のボランティア事情。
朝早く家を出て、戻ってくるのが夜の11時。自宅を出て何時間も歩いて歩いてボランティア活動をする。そんな一日が、長い時間に感じられました。
普通はボランティアになるのには資格が必要で、簡単になれるものではありませんが、このときはもう助けられる人が限られていましたので、その危険地域にいる人のみに権利がありました。また危険地域に犯人がいるかも知れないということで周りは全部警察に囲まれましたので、たぶん多くの方々が数日は援助をしたくてもできなかったと思います。


©原田京子

涙も出せないほど疲れていたファイアーファイターの人々。
トリニティチャーチへおにぎりを差し入れしている頃、アッパーウエストに住むバイオリストの友人が、疲れ果てた消防士や警察官の枕元でバイオリンを弾きました。私にも「歌え」と言いましたが、その時は、ろくに睡眠も取っていないので、そんな余裕もなかったのです。が、彼の奏でるストラディバリウスが、雨のテントの下で鳴らなくなった時、私は歌い始めていました。
友人は「あなたは一生歌っていくことになったわね」と言いました。

■“We Are Family”毎年NYで行われているチャリティーコンサート。
私が参加することになった理由。


ナイル・ロジャースと柴田智子(2002年)

アメリカでのマネージャーの奥様が、歌手のマドンナやデイビットボーイのプロデューサーだったナイル・ロジャース氏とWTC(ワールド・トレード・センター)の当時の様子を録画し、各地から有名なミュージシャンが“We Are Family”という歌を歌うドキュメンタリー映像を制作することになりました。事件後の当時の模様を今後、みんなに伝えていこうというイベントとトーク公演です。私も歌い手として参加することになりました。

参加団体は多岐に渡りますが、チャリティーコンサートでアメージングレースやアメリカ民謡の河とかヘンデルの“泣かせ給え”が多いです。9・11の後、シアトルで行われた、三枝成彰さんのレクイエムの中から歌うこともあります。

■シアトル町をあげてのコンサート


©原田京子

9・11の後、私が急遽出演することになった、三枝成彰さんのアメリカプリミア公演は、シアトルの大聖堂で行われました。お客様は私とオーケストラの目の前まで座られる程で溢れておりほぼ満員でした。コーラースの方だけでも相当な数の方々です、シアトルのオーケストラの方々もとても温かったです。

実はこのコンサートは、ある普通の主婦の方がクリスチャンで、亡くなられた旦那様のために、資材をなげうって企画をしたのだと聞きました。
「お金もち程こういうことにお金を出したがらなかったので自分一人で決めました。お金はこういう事に使うのが一番なんです、心の宝ものだから」と彼女がポツリと言ったこの言葉は、深く私の心に響き、これからの音楽に大きな影響を与えました。このイベントは新聞などでも当時、大きく取り上げられました。大使邸での晩さん会にも招待されましたが、執事のいるような大邸宅で、凛とした女性は彼女一人でした。

■日本でも、チャリティーコンサートを行います


詳しくはチラシネットをご覧ください。

2008年9月25日、東京HAKUJUホールで、日本のミュージシャンと(株)白寿生命科学研究所様、(株)ミカド珈琲商会様ご協力のもと、チャリティーコンサートを行うことになりました。27日には、自由が丘オペラ座でも、トークライブとオークションを行います。収益金の一部は「We Are Family Foundation」に贈られます。

■柴田智子、ボランティアを分析すると


©原田京子

ボランティアができるくらい自分が強くなりたい、自分の心がすごく痛んでいるのでその心を癒すためにも、悲しみに打ちひしがれないためになどと、最初はボランティアに参加する場合も多いです。でも、そこを乗り越えてから本当にボランティアは始まるのです。

アメリカでは、例えばエイズ患者のボランティアになるためには厳重な審査がいります。いくつかのハードルを越えていかないとなれません。自分の悲しみをさておいても続けていけるか、相手が感情的になってもコントロールしていけるか、継続できるかなんです。


©辻井彰子

まず一人一人違うということを認識する、その上で相手を理解する時間を持ち、他人にリスペクトを持つことでしょうか。それから話し合いをできるかどうかです。
後は違う環境の中での人との差をうらやまないことでしょう。基本的には“愛”をはぐくみ育てることですね。ボランティアを長年できたという事は、社会で履歴書に書く時、アメリカではその人の人間の器を測る大きなバロメーターになります。

■人間、だれにでも、そのような本能があると思っています。


©原田京子

ボランティアには強さがいりますし、持久力もいります。
でも人が、ボランティアをするときには、まず人のためにするのではなく、まずは自分のために始めていることを認識しないといけないかも知れません。そして、するだけの動機をしっかり自分の人生にその意味を見出せればいいですね。